私を生きる

私達は総じて奴隷なのかもしれない。

そうであるとすれば、それは一体、誰の支配による奴隷なのか。国家、政府、企業、それとも親によるものであろうか。敗戦国の国民が、戦勝国の奴隷になっているのか。もしくは金の奴隷なのか。

いや、きっと私達は、私達自身によって支配された奴隷なのであろう。人は自分自身が持つ脳の奴隷なのだ。

脳は、言葉と、それをつなぎあわせる論理によって思考する。

この世界は複雑だ。私達が生きるこの世界は、言葉によって全てを語り得るものではない。この世界の姿は言葉では語り尽くせない。人の思考の領域で、この世界の全てを捉えることはできない。

言葉で言い表されるものは、この複雑な世界を、"概念"という枠によって単純化し、切り取ったものでしかない。脳は思考によって、概念の枠を組み合わせ、積み上げ、脳内に、この世界を翻訳した、ひとつの像を作り出す。

現代では、人は、思考によって得られる合理性ばかりを重要視している。物理的な戦争が行われることが少なくなった現代であっても、戦争による侵略、略奪で発展してきた社会の実態は変わっていない。物理的な戦争の代わりに合理性を競う戦争をし、人は相変わらず、侵略、略奪によって発展しようとしている。(発展できるものと思い込んでいる。)

人は相変わらず暴力に魅了されている。(魅了される原因は、人が持つ心の傷の痛みであろう。)

このような思考戦争が行われる社会では、人は、思考によって得られるものばかりに目を向けてしまう。そして人は、思考によって作り出された像が、世界の姿であると誤認する。

脳が作り出した像の世界を生きる人は、自らの脳に支配された奴隷ではないか。

そこに国という概念があれば、国民としての人生を生きようとする。そこに家族という概念があれば、親としての、また子供としての人生を生きようとする。そこに男女という概念があれば、男としての、また女としての人生を生きようとする。

この世界では、ありとあらゆるものが関わり、関係を持ち、影響を与え合いながら活動しており、世界は絶えず変化している。そして、この世界を生きる生命は、全ての生命活動の循環によって支えられ、生存している。絶えず変化する世界そのものと直接関わり、今、この瞬間、生命活動を循環させるために意味のあることを成さずに、私達、生命を生かすことはできない。脳が作り出した像の世界を生きてしまえば、この瞬間、この世界にとって意味のあることを成すことはできないだろう。

生命が生きるという運動は、この世界に豊かな生態系を生み出す。生態系は常に豊かになる方向に変化しており、多様な生物が生きられる場所を生み出すのである。多様な生物が良好な関係性を持つことで、さらに多様な生物が生きられる場所が、そこに生まれるのである。

アスファルトで塗り固められた地表であろうと、そのアスファルトを突き破り、草が生え、その草が生えた地には有機物が堆積し、微生物が生きられる場所ができる。微生物によって土壌はさらに豊かになり、新たな植物が育つ場所となる。そして、低木が生え、高木が生え、やがて、その場所は森となる。森は食物を作り、動物達が生きる場所となる。動物の吐き出す二酸化炭素を植物が受け取り、森はさらに豊かになる。

生命が世界そのものと関わり、ただ生きようとすれば、自ずとこの世界は豊かになる。

私達、人は、紛れもなく、この世界に生きる生命である。

人の身体には、この世界に生きる生命として、世界と関わり世界を豊かにする機能が備わっているのである。人が身体感覚に従い、ただ生きようとすれば、世界は豊かになるのである。

反対に身体感覚を忘れ、脳の奴隷となり、私が私であることを止め、像の世界を生きて、世界そのものと関わることができなくなれば、この世界は滅ぶだろう。

私が、私の体に宿る命の作動に任せて、ありのままに私自身を生きることでしか、生きるということを成し遂げることはできない。

私はパーマカルチャーを知って、パーマカルチャーをなぞることはしない。私はNVCを知って、NVCをなぞることはしない。私は音読療法を知って、音読療法をなぞることはしない。私は忌部文化を知って、忌部文化をなぞることはしない。

それらのことから自分が生きるために必要なことを取り入れ、ただ自分を生きるのだ。

人の大脳が持つ、思考という強力であると同時に危険な力によって奴隷と化すことなく。

私は私を生きる。