言葉は体感覚を切り取った記号

今、パーマカルチャーを学んでいたり、NVCを実践していたりするわけなのだけど、すごく引っかかっていることがある。

それは、パーマカルチャーを学ぶ上で"文化"という言葉を扱ったり、NVCにおいて"ニーズ"という言葉を扱ったりすることだ。

文化、ニーズという言葉に共通するのは、それらが日本語ではない、ということである。

文化という言葉は日本語のようであるけど、英語のcultureを訳してできた言葉だ。もともと日本にあった言葉ではない。

もっと正確に言うと、これらの言葉は私が体でその意味を感じ取れる言葉ではないということだ。私の体に響かない言葉なのである。

言葉の意味は、辞書に書かれているような言葉による説明で理解するものではなくて、体感で感じ取るものだと思う。その言葉が生まれた場所には、その言葉の意味が指し示す体感があるはずで、その体感によって得られる感覚を切り取り、指し示すために記号化したものが言葉なのではないかと、私は考える。日本にはculture, needsという言葉がなかったのだから、日本の生活の中にはculture, needsという言葉によって指し示される体感はない。日本で生活してきた私に、これらの言葉で語られることを正しく感じ取ることは難しい。

今のところ、文化という言葉で指し示されているものは「人々が暮らす中で形成された様々なものをひとまとめにしたもの」であると感じていて、カタカナ英語のニーズという言葉で指し示されているものは「即物的な欲求」であると感じている。

人々が暮らす中で形成された様々なものをひとまとめにして文化という言葉で指し示してしまうと、人々の暮らしというものが、あるひとつの形に固定されるものであるように感じるため、違和感を覚える。暮らしとはその時の状況に応じて変化していく柔軟なものであると捉えた方が、豊かに暮らせそうだ。

NVCにおけるニーズとは、即物的に必要としているものだけでなく、さらに深遠な意味で必要としているもの含まれている。NVCの世界でニーズという言葉を聞くと、深遠な意味で必要としているものを見落としてしまいそうで違和感を覚える。

ということで、何かを学ぶ時、学ぶ対象を字面で理解するのではなく、学んだことから自分が生きるために必要なものを取り入れ、自分が生きるためにそれを実践し、身体感覚として腑に落ちる、という過程を経て理解をしたい。

そして、そのように学び、生きることで見えた世界の姿を、自分の体に響く言葉で表現し、伝えることができれば、なお喜ばしいと思う。

パーマカルチャーとはビル・モリソンが自分を生きることで見えた世界の姿を自分の言葉で記したものであり、またNVCとはマーシャル・ローゼンバーグが自分を生きることで見えた世界の姿を自分の言葉で記したものだと思う。

また、彼らは偉大な、自分を生きた人達、なのだと思う。

彼らに見えた世界を知ることで、私は救われている。私に見えた世界の姿を記すことで誰かが救われれば、こんなにも嬉しいことはない。