私のありか

私を生きる。

その時に、その"私"は、いったいどこにあるのだろうか。

少なくとも、脳で行っている思考、それ自体が私ではないと思われる。例えば「何かを食べたい。」という衝動は、身体の栄養状態によって生まれるものであり、思考から生まれるものではない。

何かをしたい、こう在りたい、という"生きようとする力"の源は、脳ではない。

 では、いずれかの内臓や、丹田とかそういったところに私があるのだろうか。感覚的には、そっちの方に私がありそうな気がする。

頭ではなく身体の方に私があるとして、人の身体とはいったい何であろう。身体は、骨格や筋肉、臓器の集合体である。そして、これらはまた細胞の集合体である。人の身体は、多くの細胞が、ある関係性を持って集合した、細胞の集合体ということになる。

そう捉えれば、臓器や体の部位ではなく、どこかの細胞に私がある、ということも考えられる。

この細胞は何からできているのか。細胞は、人が食べた食物、吸った空気、浴びた光エネルギーを元に出来上がる。人が自然界にあるものを取り入れて、細胞は作られる。人が自然界のものを取り入れようとした時、人と自然界とのやりとりが発生する。細胞は、人と自然界の関係性によって作り出されているのである。

つまり、人の身体とは、細胞がある関係性によって集合した集合体であり、その細胞は自然界のものがある関係性によって結合し作り出されたものである。さらには、古い細胞は新しい細胞に絶えず入れ替わっている。そうであれば、自然界にある食物、空気、光も、自分の身体の一部と捉えることができる。

そう捉えれば、人体外の自然界のどこかに、私がある、ということも考えられるだろう。

加えて、自然の生態系はありとあらゆる生物の活動の循環の上に成り立っており、すべての生物との関係性によって、人の身体は成り立っている。人と人の関係性、人と人以外の生物の関係性によって、人が存在しているのであれば、自分以外の誰かや、人以外の生物も含めて自分の身体の一部と捉えることができる。

このように考えると、いったいどこまでが人の身体なのだろうか。自分以外の誰かや、人以外の生物に、私があるということも考えられるだろう。

人が一人で生きていくことは難しく、人は人との助け合いの上に生きている。その助け合いという人と人の関係性によって、自分が成り立っていると捉えることでも、自分以外の誰かに私があると考えられる。

自分という存在は、複雑で動的に変化する世界の上に、ある関係性が生じた時に、初めて存在するものである。その関係性が築けなくなった時、自分という存在はなくなってしまう。その関係性を築こうとする力が、"生きようとする力"であり、生きようとする力の源が"私"である。

つまりは、自分を存在させている関係性に"私"が宿っているのではないだろうか。

この世界に、自分というものを構成する関係性の線が張り巡らされていて、その線の上に"私"があるのだろう。

私のありかは定まっておらず、今、この瞬間、複雑で動的に変化する世界のどこかに私がある。私のありかは、自分の肉体の一部かもしれないし、どこか遠くの森の木々かもしれないし、足の裏の下の地面の中かもしれないし、あなたの側に居る誰かかもしれない。もしくは、それら全ての場所に同時に私があるのかもしれない。

私は、私以外のありとあらゆるものに支えられ存在している。私と私以外のものの間に境界線はない。また、私以外のありとあらゆるものの力の支えによって私という個が存在している。ここに「全てのものは合一しており、合一しているからこそ、全てのものが個別であり得る」という矛盾した論理が成立する。

私のありかを知るには、複雑で動的に変化するこの世界と心を開いて関わり、そのありかを感じ取るしかない。そして、その瞬間、そこに、生きようとする力の源がある。私が生きることで成し遂げようとする、私の願いがそこにある。