誰もが聖人となれるか

とある知人の親御さんが聖職に従事する方(神父)で、その方の日常の振る舞いについて話を聞いた。

話を聞くと、その方の振る舞いは、驚くほどの徹底された自己共感の境地だった。教会には、強烈なほどの悲惨な状況の人々が相談に来るそうだ。例えば、家族全員がうつ病統合失調症のような状態になっていて、収入がなく、著しく清潔さを欠いた生活をしている一家など。しかし、その神父の方は、このような人々と直面しても全く動じず、親身になって話を聞き解決策を共に探るそうだ。むしろ、相談者の状況が悲惨であればあるほど、生き生きと事態に応じるそう(すごい・・・)。

いかなる困難や悲痛が目の前にあり、なおかつ相手のニーズを推測しづらい状況であっても、自分の感情に振り回されず自分のニーズにつながって穏やかに生き生きといられるのは、一つの共感的態度の境地だと思う。

そのような境地がある一方、子どものようなあり方も、境地の一つだと思う。どのような状況であっても、評価を恐れず自分のニーズに従って無防備に自分の感情をさらけ出し、その姿を受け入れてもらおうとする。衝突や対立が生じることはあるが、その衝突や対立をも恐れず、そのままの自分を受け入れてもらい、つながりを作ろうとするのである。これもまた共感的態度の境地ではないか。

そんなことを考え、以下のような共感的態度があるのではないかと考えた。

・聖人型の共感的態度:対立が生じない共感的態度。

・子ども型の共感的態度:対立が生じることを許容する共感的態度。

どちらかの共感的態度を極める、ということは難しいだろう。現実的には、その時のその人の余裕に応じて、時に聖人型の共感的態度をとり、時に子ども型の共感的態度をとることになるはずだ。

時に子ども型の共感的態度をとることがある以上、対立が存在してしまう。しかし、それで構わないのではないだろうか。誰もが聖人になることが難しい以上、全ての対立を解消してから事を進めることは難題を極める。対立が生まれたその時に、余裕のある人がいれば聖人型の共感的態度で問題解決を図ろうとすればいいし、余裕のある人がいなければ対立があるままに事を進めれば良い。その対立が致命的な対立なのであれば、人は自ずと聖人型の共感的態度へと向かい、対立解消に乗り出すはずだ。

その瞬間の自分の状態に応じて、自分ができる共感的態度をとることで、生命はその瞬間を生き生きと生きることができる。共感的態度は上記した二つの型に止まらないと思うし(物事を二項対立で捉えることは危険だ)、その人がありのままに、その瞬間の姿で共感的態度を取れば良い。その瞬間の自分を偽って、いずれかの共感的態度の境地であろうとすることは、それは共感的ではない。

そして重要な事は、対立が生じたその時に、対立が生まれた事を認識し、暴力を振るわないことだ。対立を認識せずに事を進めると、そこに暴力が生じるのだと思う。

問題は、対立が生じることではなく、暴力が生じることだ。もしかしたら対立は、より良いつながりのあり方に気づくために必要なことなのかもしれない。そして対立を乗り越えるために、共感的コミュニケーションを用いれば良いのである。

共感的コミュニケーションによって対立は解消し、関係性はより良いつながりへと前進するだろう。