防弾チョッキだって銃だって持ってないのに、僕らは無防備じゃない

僕らは無防備か?

そりゃ防弾チョッキだって銃だって持ってないし、無防備じゃないか。

いや、そりゃそうなんだけど。

自分の命は丸腰か?

っていう質問。

嫌われること。
責められること。
見放されること。

そういう銃弾にどこからともなく撃たれるような気がして、防弾チョッキと銃で自分の命を武装して、いつだって身構えてる。敵はどこだ!

そんなことしてるうちに、自分の命は身動きが取れなくなって、いつだって置き去り。

丸腰になって、丸裸になって。

「学校行きたくない。」

「会社行きたくない。」

「家族の朝ごはん作りたくない。」

って言えますか?

いや、でもまだ、これじゃ、裸じゃない。

(テストの結果で人の優劣を決めつけれらて悲しいよ。平等に扱って欲しい。それよりも悲しんでることを先生にわかってもらえないことが苦しい。だから、)
「学校行きたくない。」

(仕事が楽しくなくて、やる気出ないよ。これじゃ自分の力を出せるわけがない。もっと楽しんで成長して自分の能力を生かして仕事して、職場にお客に貢献したい。どうしたらいいの。明日も生活のために嫌々、働く。だから、)
「会社行きたくない。」

(3食作って、食器洗って、洗濯して、掃除して、買い物行って、お迎え行って、子供と遊んで。休みなんてない。もうボロボロ。家族のために尽くしてるけど、自分の楽しみだって欲しい。せめて、ゆっくり寝かせてよ。だから、)
「家族の朝ごはん作りたくない。」

このあたりまでくれば裸?

いやでも、まだまだ手放せる。

手放せば手放すほどに、命はそのままの姿になって、そのままに求める。

気楽に
自由に
健やかに
成長し
静けさと共にある
安定の日々を過ごし
時に刺激に触発されて
新しい発見と
探求への熱はみなぎり
あなたと出会い
つながって
受け入れてもらって
受け入れて
調和した平和な世界よ
愛情の世界を生きたいよ
助けて欲しいんだ
その世界のために尽くしたい
そんな盛りだくさんのいろいろをやりきるための余裕だって必要だ。

手放せば手放すほどに。

嫌われること。
責められること。
見放されること。

そんな銃弾を撃ってくる奴なんていなかった!

それを知る。

無防備であるほどに。

世界は"安全で安心していられる場所"だったことを知る。

非暴力コミュニケーション。

NonViolent Communication = NVCはそれを教えてくれる。

マーシャル、ありがとう!

これは未来の学問。

でもって、NVCは学問と宗教の狭間を悠々と飛び越える。

だけど、ちょっと待って。

孔子も、ブッダも、キリストも同じこと言ってたんじゃないの?

無防備になって、誰もが自分のままに、誰かを愛せって。

ちなみに、孔子さんが言うには「自分の思想は、古の聖人の教えそのままなんだよね。」

やばい時代には、誰かが気付くんだよ。

今、この時代に気付いてくれたのはマーシャル。

マーシャル、ありがとう!

2000年以上続く暴力の歴史を終わらせる力は、もうここにある。

あとはその力を僕らが使うかどうかだ。


三宅洋平メルマガで配信された、三宅洋平×ソーヤー海×冨田貴史の、NVCトークテーマにした対談動画を見まして。改めて、無防備でいることの心地良さをつかみ直しまして。

だから、無防備でいられる安心安全な場所を作るよ。共感茶の間。またの名をNonViolent Chanoma( = NVC)。また名前は変わるかも。詳細は後日。

だけど本当は、安心安全な場所だから無防備になれるんじゃなくて。無防備でいると、そこが安心安全な場所になるんだよ。ああ、これもまだ少し違うな。そうじゃなくて、自分が勝手に武装してるだけで、もともと世界は安心安全な場所なんだよ。

ポイしましょう。ポイ。